歪んだ心理空間における精神的被害

モラハラ、DV、ストーカー、セクハラ、性犯罪等における加害者心理と被害者心理

「トラウマを忘れよう」とか「加害者を許そう」とかする必要はない。「どうでも良くなる」方法

「恨み続けるのは辛いことだから、早く忘れた方が良い」、「許せるなら許した方が幸せだ」という考え方があります。

 

それはもっともなのですが、加害者が大した罰を受けていなかったり、あるいは逃げ回ったりしている場合、被害者は加害者を許すことなどできなくて当たり前だと思います。これは自他ともに認めて良いことではないでしょうか。

 

被害者は、加害者を許そうと努力する必要はないと思います。おそらく、まったくない、と思います。ただし絶対にした方が良いことがあります。加害者を許すとか許さないとか、あるいは加害者に勝つとか負けるとかいうのとは、まったく別の方向があり、それだけは全身全霊で行う必要があります。これは、ちょっと前に下の記事でも書いたことです。

 

echo168.hatenablog.com

 

  

自分の状態を回復、改善させる

被害者が加害者を許すことができないのは、被害を受けたせいで、現在の自分の状態が悪くなっているからです。

 

逆に、自分自身の状態が良くなると、加害者のことがどうでも良くなってきます。

 

何よりも真剣になって力を注ぐべきなのは、自分自身の状態を良くすることです。「良くする」というのは、いろんな意味で、「治療して治す」とか、「前よりももっと良いものを作り上げる」とか、良い自分を作るということです。

 

失ったものの大きさによっては厖大な時間も努力も必要になります。それでも真剣に努力していると、自分を回復させる過程で、「こんな事ができるようになった」「こんな事が分かるようになった」等、ちょっとした喜びや楽しみが生じてくるようになります。これは自分自身の知識や能力といった、新たな財産となり、新たな自分を作っていく材料になります。

 

特に、自分の努力や工夫、知恵によって自分を立て直していけると、それ自体がある意味での成功体験となり、自信につながり、自分の実になっていきます。自分の回復体験が、同じ苦境から脱しようと真剣に努力している人たちへの情報提供にもなります。こうした実感が生じるたびに、加害者のことに関心がなくなっていきます。

 

 

転んでもただでは起きない

転んだら、転んだ地面に何か良いものが落ちていないか、探してみます。「何か得るものがないうちは、転んでいてみよう」と思っていると、不思議と必ず(!)何か良いものが見つかります。

 

この時、すぐに見つかるものには大きな価値はないかもしれません。その出来事を忘れず、そこから十分に良いものを引き出そうという気持ちさえ持ち続けていれば、年数をかけて何度でも、次々と良いものが見つかっていきます。

 

転んで、急いで起き上がって、さっさと忘れようとする場合、〈転んで怪我をした〉というマイナスの経験となって残るだけだったりします。

 

もちろん、大したマイナスでもない場合、ちょっとした教訓にして、さっさと嫌な気分は忘れてしまえば良いと思います。また、さっさと忘れられるものです。でも、マイナスがあまりに大きい場合、さっさとは忘れられません。

 

 

トラウマ体験を忘れよう、封印しよう、とする必要はない 

異常者からの被害に遭うと、被害者は精神的に破壊されるものが多く、事件後もPTSD心的外傷後ストレス障害)に陥ります。

 

PTSDになった場合、無理に「忘れよう」としてもかえって拗らせ、悪い影響を引きずっていくことになりがちです。

 

しなければならないのは、トラウマ体験を「忘れる」ことではなく、「処理」し、「統合」していくことです。

 

「処理」して「統合する」というのは、その出来事が何だったのか理解し、自分の人生観を広げる仕方で取り込むことです。マイナスの経験を、プラスの方向で取り込み、統合することができます。

 

気休めやごまかしではなく、事実を解明し、説明できるようになることがポイントです*1

 

自分が受けたパーソナルな被害が客観化され、普遍化され、自分の経験や証言が他の被害者たちにも役立つ情報となります。この過程について具体的には、ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』, みすず書房, 1996年をお読みください*2

 

とりわけPTSDになりがちなのは、加害者が異常者である場合でしょう。被害者は理解できず、常識で動いて失敗し、理不尽で不可解な被害をたくさん受けてしまっています。

 

そうした場合は特に、被害者は「あの時、ああすれば良かった」「こう言えば良かった」と、とめどもなく自分を責め、それができなかった自分を否定しがちです。自分に落ち度があって(あるいは自分が価値のない人間だったために)、他人が遭わない被害に遭ったと思いがちだし、加害者からも第三者からも、そう言われます。

 

この間違って歪められた自己否定感は、加害者の精神構造の異常性を理解することにより、完全に払拭されますこれについても、上に引用した記事で書きました。この理解自体が一つの知見となり、人間観や人生観が格段に広がる材料になります。

 

そして、客観化して見ている自分の方に、自己感覚が移った時には、トラウマを乗り越えています。

 

 

私自身のPTSD回復体験

私自身、極度の変質者による異様な被害に遭い、被害が継続している最中からPTSDが始まり、丸二年間、激烈なPTSDでした。

 

医療機関による治療も二次被害にしかならないものだったので、間もなく病院に行くこともできなくなりました。「このまま一生をかけて自分は人格が崩壊し、気が狂っていく」という可能性しか見えない二年間でした。

 

「治療が受けられないのなら、とにかく自分で治そう」と決心しました。

 

自分で文献を調べ、事態を理解し、事実の解明をし、トラウマ体験を処理し、自分の世界観に統合できたと感じられた頃から3カ月間くらいで、あらゆることに及んでいたPTSDの症状が、次々と消え去っていきました。

 

(私の場合、PTSDの症状が凄まじく、毎分毎秒を耐えるのも精一杯だったので、躊躇していられる余裕もありませんでしたが、PTSDのトラウマ体験に向き合って処理するのは相当な痛みや苦しみを伴う作業ですので、安全性を確保するためには、信頼できるカウンセラーのもとで行ってください。)

 

 

マイナスの体験をプラスの方向に統合する

幼少期に近親姦に遭い、多重人格の症状まで呈していたシルヴィア・フレーザーは、複雑性PTSDを克服し、後に作家となりました。彼女は次のように書いています。

 

私には一つの贈り物がさずかったのがわかる。それは因果関係より成る私の狭かったプラグマティックな世界の代わりに(中略)、驚異に満ちた無限の世界が突然開け、私はその中に入ったのだから」(ハーマン, 前掲書, p. 339より。「プラグマティック」というのは「実用的」という意味です)。

 

モラル・ハラスメントの提唱者イルゴイエンヌも次のように言っています。

 

「トラウマを経験したことによって、被害者は人格をつくりなおし、外部の世界とそれまでとはちがった関係を打ちたてる。トラウマは確かに被害者の心に消えない傷跡を残すだろう。だが、被害者はその上にたって、自分の世界を再構築することができるのだ。この辛い体験は被害者が自分を変革する絶好の機会となることが多い。被害者はもっと強く、もっとしたたかになってこの辛い状態から抜けだし、そこでようやく、他人から尊重される人間であろうと決意することができるのだ」(イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメントー人を傷つけずにはいられない―』, 紀伊国屋書店, 1999年, p. 306)。

 

事件によって、たとえどんなにたくさんのものを失っても、それ以上に多くのものを取り戻していけると信じる必要があります。不運なら不運なりに、他に道がありません。

 

転んでも必ず何かをつかもうとする必要があります。これは不思議と、必ずできます。次々と発見や獲得があり、少しずつ楽しくなります。

 

そして被害による悲しみ以上に喜びの方が大きくなったときに、加害者のことが完全にどうでもよくなります。そのとき、加害者との勝ち負けなど、どうでも良いことだったのだと気付きます。

 

「この辛い体験は被害者が自分を変革する絶好の機会となることが多い」というイルゴイエンヌの上の言葉は、本当にそうです。これを肝に銘じているかぎり、たとえ何年、何十年かかろうとも、本当にそうなります。

 

なぜなら方向としては、自分の心の向かう方に、人生は向かっていくからです。

 

*1:「真実を語ることが自然治癒力を持つ」(ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』, みすず書房, 1996年, p. 283, cf. p. 229)。

*2:「生存者は外傷以前の時期、外傷体験自体、そして回復の時期をふり返って、そこから自分がもっとも高く評価する自分の面(複数)を改めて引き出すのである。これらの要素すべてを統合して生存者は新しい自己を創り上げる、理想像としても、現実においても――」(ハーマン, 前掲書, p. 318)。