トラウマからの回復 ― ポスト・トラウマティック・グロース(PTG) 被害者はこうすれば立ち直れる!
加害者に反省や謝罪を期待しない
被害の種類を問わず、事件の加害者が反省したり謝罪したりすることを求める被害者が多いのですが、自分自身が早く立ち直り、事件を乗り越えていくには、加害者に反省や謝罪を求める気持ちをもたない方が良いでしょう。
そのような期待をもってしまうと、被害者は自分が被害を乗り越え、先に進んでいく決定権を、加害者に委ねることになってしまうからです。
つまり、自分が立ち直れるかどうかが、加害者が反省するとか謝罪するとか、加害者次第になってしまうということです。
しかし、そもそも事件の加害者になるような人に、誠実さなどありません。
ですので、加害者が反省したり謝罪したりすることを期待する気持ちがあると、被害者は事件をいつまでも引きずることになりかねません。
だからといって、加害者をそのまま許そうとする必要もありません。
もちろん復讐などを企てると、いつまでも加害者との関係に囚われてしまいますし、まして違法な復讐は自分自身の身を滅ぼすことなので論外ですが、被害者は「加害者を永遠に許すまい」と思っていて良いような気がします。
加害者は人に憎まれて当然の人間です。
悪いことをした人が反省して、それで被害を受けた人が許して・・・というような、普通の人間関係が成り立たないような人間だから、他人の人生を滅茶苦茶にするような事を平気でするのです。
以前にも書きましたが、被害者が事件を乗り越えていくために、唯一絶対に必要なこと――それは、被害者が自己自身を良くしていくことです。
傷害を負わされている場合は、少しでも治していくこと。
大切にしてきたものを壊されている場合は、それに代わる、もっと良いものを作っていくこと。
社会制度などに問題があると感じた場合は、それを改善する活動をしていくこと。
他の被害者たちを支援したり、同様の被害者が出ないように、自分の経験を活かしていくこと。
このように、自分自身や社会全体などを、少しでも良くしていくことに全力を注いでいるうちに、以前には知らなかった多くのことを学びます。
それはやりがいのある作業です。
続けているうちに、必ずそこに、何かしら喜びや楽しみが感じられるようになります。
そして、新たに身に付けた知見や経験が、自分が生きていく新たな力となります。
気が付いたときは、事件以前よりも、深く大きな内容をもった自分になっています。
たとえ事件により、「人間としての尊厳をすべて奪われた」ということがあったとしても、その経験も含めた自己自身の、より大きな尊厳を新たに獲得することが、その時にはできているはずです。
自分の状態がそうなってみて振り返ってみると、加害者のことなど、どうでもよくなっています。
加害者は、いずれ自分から地獄に落ちていくでしょう。
あるいは、彼らは既に地獄にいるのです。
彼らはいつも不機嫌だったり、何かを恐れていたり、普通の人であればしたくもないような気持ち悪いことをしながら生きています。
被害者は、加害者を許したり、大目に見てあげたりする必要はありません。
被害者は、少しでも加害者を許そうとして、加害者が反省したり謝罪したりすることに、自分の人生を委ねたりしない方が良いです。
加害者を反省させ、更生させること――それは、別の人たちの仕事です。
PTG(ポスト・トラウマティック・グロース)
そして、被害を忘れようとするのでも、加害者から損害分を取り戻そうとするのでもなく(もちろん、裁判などで取り返せるものは取り返すと良いですが)、損害以上のものを自分が自分の力で実現させていこうという気持ちを持つと良いでしょう。
なぜなら、それは自分がその気になりさえすれば、確実に出来ることだからです。
たとえ自分自身は取り返しのつかないほど大きなものを失ってしまっていたとしても、社会全体という視点に立てば、多くの人たちが同じ不幸に陥らずに済むことに、何かしら貢献できることがあり、そこに自分の新しい人生も生じてきます。
事件や被害は、なかったことにはできません。
しかし、事件や被害を乗り越えていくことはできるし、また、そうしようとするしかありません。
「モラル・ハラスメント」を提唱した精神科医イルゴイエンヌは、次のように言っています。
「トラウマを経験したことによって、被害者は人格をつくりなおし、外部の世界とそれまでとはちがった関係を打ちたてる。トラウマは確かに被害者の心に消えない傷跡を残すだろう。だが、被害者はその上にたって、自分の世界を再構築することができるのだ。この辛い体験は被害者が自分を変革する絶好の機会となることが多い。被害者はもっと強く、もっとしたたかになってこの辛い状態から抜けだし、そこでようやく、他人から尊重される人間であろうと決意することができるのだ。[…] 知性は通常の苦しみから生まれるものではない。トラウマを負うような苦しみから生まれるのだ」(マリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメント人を傷つけずにはいられない―』, 高野優訳, 紀伊國屋書店, 1999年, p.306)。
また、『心的外傷と回復』の著者、ハーマンも次のように書いています。
「少数ではあるが重要なのは、外傷の結果、より広い世界にかかわる使命を授けられたと感じる人々がいる。このような生存者はみずからの不運の中に政治的あるいは宗教的次元を認識し、おのれの個人的悲劇を社会的行動の基礎とすることによってその意味を変換できることに気がつく。残虐行為を帳消しにする方法はないけれども、それを超越する方法はあるのであり、それは残虐行為を他者への贈り物とすることである。外傷があがなわれるのはただ一つ、それが生存者使命の原動力となる時である」(ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』, 中井久夫訳, 小西聖子解説, みすず書房, 1996年, p.328)。
トラウマからのこうした回復は、近年、PTG(ポスト・トラウマティック・グロース)という概念で捉えられています。
焦らないこと
他人から「なぜいつまでも立ち直れないのか?」と思われ、被害者自身も、立ち直れないことが自分の弱さであるかのように感じて、自信がなくなることもあるでしょう。
しかし、被害の大きさによっては、立ち直りに長い年月がかかって当然です。
また、<被害の大きさ>というものに客観的な基準があるわけではなく、敢えて一般的な言い方をすれば、事件によって被害者が失ったものが、本人にとってどれほど大きなものだったかによるものです。
何が大事かというのは、結構、人によって異なっており、必ずしも他人から理解はされません。
ですので、なかなか立ち直ることができないからといって、焦る必要はありませんし、逆に、立ち直りにある程度時間がかかる場合の方が、その後得るものも大きいものです。
ただし、ただ忘れることによって立ち直ろうとするというのではなく、ここで書いたような方針のもとに、努力する必要があります。
人間がこの世に生まれてきた意味を考える
そもそも、人間は何のためにこの世に生まれているのでしょうか。
これは哲学的な問いですが、おそらくこの視点がない人よりはある人の方が、被害から立ち直る困難が少ないでしょう。
たとえば、幸せに楽しく暮らすことだけが良いことだと思っていると、被害に遭ったことは損害以外の何でもなく、「自分の人生は、こんなはずではなかった」という思いに、いつまでも付きまとわれがちになるかもしれません。
しかし、人生の目的は<学び>と<成長>であり、また、他の人々がそうした目的を果たすことに、少しでも貢献することだという考えがあると、人生上の不運や困難はただの<不幸>ではなく、<挑戦>や<課題>であり、<使命(ミッション)>なのだという感覚が湧いてきます。
ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者であるヴィクトール・フランクルも『夜と霧』の中で、次のように言っています。
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」