歪んだ心理空間における精神的被害

モラハラ、DV、ストーカー、セクハラ、性犯罪等における加害者心理と被害者心理

第三者が「被害者に落ち度がある」という見方をしたくなるのはなぜか

しばしば加害者は自己正当化して罪を逃れるために、被害者が悪くて自分が問題の言動をとったという主張をしますが、被害者は第三者からも非難されがちです。

三者は、「被害者に落ち度があって被害に遭ったのだ」という話にするのが好きです。

そこに働いている心理として、次のようなものが考えられます。

 

人によっては、被害者の身になって、一緒に苦い思いをするのが煩わしくて嫌なのです。

また、被害者が自分と同じ常識人だとすると、自分もいつ同じ被害に遭うか分からないという不安や恐怖、不条理を感じなくてはなりません。

あるいは被害者の話を聞いて、自分が力になれないという無力感を感じるのが嫌な人もいるかもしれません。

 

しかし、被害者の身になりたくないとしても、自分が煩わしいという理由で被害者を見放したり、心情のうえで切り捨てたりすることには、やましさが付きまといます。

いかにも自分が、些細なことにも耐えられない、狭量で薄情な人でなしです。

どうしても被害者を気の毒だと思ってしまう人であれば、それはそれで、何の罪もない被害者にふりかかった不幸な運命に人の世の不条理を見て、自分も悩まなくてはならなくなるでしょう。

 

このとき、もし被害者に落ち度があれば、第三者は自分が被害者の身になることによって生じる苦痛や、不安感、無力感といったものから、何の葛藤もなく解放されます。

そこで、「被害者が悪い」と言い立てる加害者の主張を、真に受けたくなります。

「加害者が言っているように、被害者が常識知らずで、バカなことをしていたために、そんな目に遭ったのだとすれば、常識人である自分は被害者の苦しみを共有する必要がない。自分にはまるで無縁の人間たちの話だ。被害者も、これで分かって反省しただろう」と考えることができます。

 

こうして、何のやましさも罪悪感も感じずに、安心して被害者を切り捨てていくことができます。

それでも自分は「人でなし」ではないし、むしろ「自分だったら、そんなバカなことにはならない。自分は絶対に大丈夫だ」と思って安心できます。

人によっては被害者の落ち度を探して列挙して、自分はなんて賢い人間なんだと、自分に感心することすらできるでしょう。

 

このようにして被害者は、二次被害を受けます。

 

自分にやましさがあると、それを直視しなくて済むように、相手が悪いという話にして済ませたくなるという心理は、さほどの悪人でなくても、多くの人たちにあるものかもしれません。

M・スコット・ペックも、人間の邪悪性とは<罪の意識の欠如>ではなく、<罪悪感から逃れようとする気持ち>から生じると言っています(『平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学―』, 草思社, 1996年, p. 101 )。

 

いろんな精神的暴力を、この心理から解明することができると思います。

たとえばドクターハラスメントなども、医者がその患者を治せないと、起こりがちです。

自分のやましさを逆転させる方便が、「相手が悪い」というものの見方です。