歪んだ心理空間における精神的被害

モラハラ、DV、ストーカー、セクハラ、性犯罪等における加害者心理と被害者心理

「被害者には何の非もなかった」という事実の解明の重要さ

 (犯罪被害者の)遺族たちの多くは、異口同音に、「自分の家族がなぜ被害にあったのかを知りたい」として、事実を徹底的に追求しようとします。典型例は、長男を殺害されたある女性の事例です。

 

 この女性は、長男を殺害した犯人を、その正体が不明なまま、それまで23年間も――事件が時効を過ぎた後も――憎み続けてきました。言うまでもなく、これは正当なうらみです。ところが、別の罪で服役している、その真犯人が、罪の意識に駆られたためか、時効後しばらくして名乗り出たのです。この女性は、既に法的な罪を問えなくなっている殺害犯に、殺害の状況を聞くため刑務所で面会します。その時、この女性は、正直に話してくれたことで、何とその殺害犯に向かって、「打ち明けてくれてありがとう」と、心底から素直にお礼を言っているのです。女性の娘(殺害された男性の妹)も、同じような心境になったそうです(小山、2004年、115、192ページ)。

 

 薬物による妄想から、自分が覚醒剤中毒であることを察知されたのではないかと思い込んだ犯人が、何の罪もない、通りすがりの息子を残忍な方法で殺したにもかかわらず、この女性は、その犯人に感謝したばかりか、面会終了まぎわには、「寒くなりますから、お体に気をつけてくださいね」などと、いたわりの言葉までかけています。そして、息子に何の非もなかったことを殺害犯から聞き出して、心から安心したというのです。非が全面的に犯人の側にあることを知れば、それによって、「何の罪もない息子をあっさり殺した」として憎しみが増すはずだと考えるのが常識というものですが、それとは逆に、心から安堵したわけです。癒やしというものがあるとすれば、これこそが本当の意味での癒やしでしょう。

 

 常識からすれば実にふしぎに見えますが、この女性は、息子が無残な殺されかたをしたのは、息子が悪かったためではないことを知らされて、素直に喜んでいるわけです。この生死を超越した心の動きは、逆うらみの場合とは正反対とも言える心の動きです。

 

こちらのブログからの引用です。(ただ、私はこの先生のPTSD理解には問題があると思いました。それはまたの機会に取り上げます。)

www.02.246.ne.jp

中で引用されている書籍は、こちらです。

 

 被害者にしても、被害者の遺族にしても、あまりに悍ましい事件に遭って、あまりに大切なものを失ってしまうと、なぜそれが避けられなかったかという後悔から、自分(あるいは自分の家族である被害者)に何らかの原因があったのではないか、と考えがちです。特に異常な事件である場合、普通の脈絡などでは起こっていませんので、ああでもない、こうでもないと、考える余地のある事が山のようになります。第三者からも、「被害者に何かあったから、こういう目に遭ったのではないか」という疑いをもたれたりします。事実がハッキリしないと、「ああすれば良かったのではないか」、「こうすれば良かったのではないか」、「これが悪かったのではないか」、「あれが悪かったのではないか」と、後悔や煩悶が尽きません。そんな思いを抱えていたのでは、いつまでも事件から立ち直ることができません。

 

 「自分(あるいは家族である被害者)に何の非もなかった」ということが明らかになるだけで、後悔からも、堂々巡りからも、解放されるのです。加害者に「妄想」があるような場合、被害者には全く何の落ち度もありません。そして、加害者の中に1から10までの筋書きがあるわけで、被害者はたまたまそこに居合わせてしまっただけ、つまり人間ではないようなモノによる単なる事故だった、というような気がしてくるものです。

 

 恥ずべきことなど何もしないで生きてきた被害者が、悍ましい事件に遭ったというだけで、人格まで貶められてしまっている場合、「何の非もなかった」という事実の確認は、被害者にとって、どれほど救いになる事か分かりません。

 

 繰り返し言うように、加害者の異常性の解明が、その役に立つことがあります。なぜなら加害者が正常(常人が理解できる筋道で行動する人、という意味ですが)だとすると、被害者が何か変だったということになってしまう場合があるからです。

 

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